どちらかと言えば、つぶあん派です。

はじめまして、よっさんと申します。1982年、広島県生まれ。「あひるの空」とゆずの「夏色」とチキン南蛮を愛する一児の父。瀬戸内を盛り上げるために日々奮闘するも、泳げないのがタマニキズです。

【転職】

新しい年も明けて10日が過ぎた。
年明けこそ暖かい日が続いたが、ここ2,3日はこの時期らしい寒い日が続いている。
陽介はトレーニングジムを後にして寒空の下、家までの道を歩いていた。通り道には赤ちょうちんを出したおでん屋の灯が光っている。

おでん屋「余山」。

丁寧な仕事ぶりが根強いファンを作り出して隠れた名店で、今日もお客さんの声が店の外まで聞こえていた。
いつもだったら陽介も軽く食べて帰ることもあるが、今日はそんな誘惑には目もくれずに家まで足を向けた。

一つの決断を胸に秘めながら。


「ただいま。」

「おかえり。どうする先にご飯にする?」

家に着き、リビングに入った陽介に気づいた妻の晴香は料理をしながら声をかけた。リビングに香るのはダシの匂い。
見ると大きな鍋に玉子や大根、こんにゃくなんかが見える。偶然にも夕食はおでんだった。

「そうだね、先に食べようかな。」
「了解。じゃあすぐ用意するから座って待っててね。」
「わかった。」

陽介は椅子に座り、新聞を広げた。一面にはいよいよ本格始動が始まった新交通システム「ラミア」のことが書かれている。移動速度が速く、環境の面からもエコなこの乗り物は新時代の新たな交通として注目されているのだ。

へぇ、2023年にはもう実用化されるんだ。思ったより早いな。

「お待たせ。」

晴香が鍋を持ってきた。蓋を開けると美味しそうな香りが湯気とも立ち上る。海沿いの田舎町で育った晴香は市販のダシがあまり好きではなく、味噌汁にしても煮物にしても、自分からダシをとる。もちろん今日のおでんも晴香が一からダシをとったものだった。
それに晴香が市販のダシを嫌うのにはもう一つ訳がある。

晴香のお腹には8か月になる陽介との子供がいるのだった。

「子供、順調に成長しているって。お医者さんも言ってたよ。」

玉子を食べながら晴香は言った。

「そっか、それは良かった良かった。」
「うん。元気なのが一番だもんね。」
「そうだな。」

陽介は大根を口にした。よくダシが染みているはずなのにまったく口の中に味が入ってこない。

「どう?」
「ん?何が?」
「何がっておでんだよ。美味しい?」
「ん、ああ美味しいよ。」
「そう、良かった。でさ・・・」

笑いながら他愛もないことを話す晴香の顔を見てホッとする一方で、言おうと思っていた決断を口に出す判断が鈍っていくのがわかった。

やるべきか辞めるべきか。今ならまだ間に合う。

行ったり来たりの自問自答を繰り返しながら、おでんを口に運ぶ。
その時、ふと晴香が陽介に聞いた。

「どうした? 陽ちゃん、何かあった?」

この一言が決断を躊躇していた陽介の背中を押した。
さすが俺の嫁さんだな、叶わないな。いや誰でも感づくか。でも、よし! 決めた!
意を決して陽介は晴香に心の内を話した。

「あのさ、転職しようと思うんだけど。」
「えっ?」

おでんを食べていた晴香の顔から笑顔が消えた。

「どういうこと? 転職って。」
「子供ができてからずっと考えていたんだ。殴ったり蹴ったりすることでお金を稼ぐのを辞めようと思って。」
「えっ、何で? いっぱい経験も積んで、これからって時なのに。」

普段はおっとりしている晴香だが、今日ばっかりは狼狽しているのが明らかだった。それでも陽介は自分の思っていることをゆっくり、そしてしっかりと晴香に話続けた。

「確かにたくさん闘って経験も積んで、それに比例してお金も稼げるようになってきたよ。俺としても自信が付いてきているし、今の仕事に胸を張っているさ。」
「じゃあ、何で?」
「経験も積んだけどやっぱり怖いんだよ、負けるのが。負けることで全てを失ってしまいそうで。それを子供ができてからはもっとはっきりと思うようになってきたんだ。」

唇をかみしめる陽介とそれを見つめる晴香。いつの間にか、2人とも箸を置いていた。

「確かにそれはそうだけど・・・。でも陽ちゃんはそれでいいの? 私は闘っている陽ちゃん嫌いじゃないし・・・。そりゃ最初は怖かったけどさ。でも、今は自慢の旦那だって思っているよ。だから、辞めるなんて・・・」
「ありがとう。晴香が俺のことをずっと見ていて、ずっと支えてくれているのには凄く感謝しているよ。でも、生まれてくる子供のことを考えた時にはどうだろう、どうしても今の仕事を続けている姿を想像できないんだよ。」

自分のことを真っすぐ見ながら話をする陽介の姿を見て、晴香も心を決めた。

「わかった。陽ちゃんも私とこの子のことをしっかりと考えてくれた上での決断だし、いいよ。私も応援するから。だから、おでん食べよ! 冷めちゃうし。」

100%の納得じゃないにしても、この人は私たちのことをいっぱい考えてくれている。
お腹をさすりながら話す晴香の顔にいつもの笑顔が戻った。

そして、2人は再びおでんを食べ始めた。
ちくわにはんぺん。餅巾着にがんもどき。じゃがいもにスジ肉と、2人で食べるには十分すぎるくらいの種類と量。

「それで次は何の仕事をしようと思っているの?」

ごぼう天を食べながら晴香が聞いた。

「あのさ、次は僧侶になろうと思うんだ。」
「そ、僧侶!?」
「そう。あっいや、ダジャレじゃなくて。」
「わかってる。でも、なんで僧侶なの?」

再び狼狽し始めた晴香に、陽介は再びゆっくり、そしてしっかりと話だした。

「殴ったり蹴ったりするのってやっぱり痛いんだよ。手や足も痛いんだけどそれ以上に心が。例え、仕事だとしてもね。」
「うん。わかるよ。」
「一方で世の中には戦争もあるし、いじめもある。戦争もいじめも痛みを伴うし悪いことだけどなかなか無くならないよね。」
「うん。」
「だから、その痛みを少しでも伝えることができないかなって。」
「陽ちゃんが?」
「そう。殴って、蹴って、そうやってお金を稼いでいた俺だからわかることもあるし、伝えられることもあると思うんだ。それにお腹の子供にもそういう優しい世界を伝えていきたいと思うんだよね。」
「でも、僧侶って大変なんじゃないの? 私もよくわからないけど、お寺さんって厳しいイメージがあるし。」
「楽ではないだろうね。でもそれは今の仕事も一緒だし、どの仕事も同じだよ。」
「それはそうだけど。でも、どこかあてはあるの?」
「とりあえず、斡旋所に行ってみようかと思うんだ。過去にいくつか事例もあったみたいだし。」
「そっか・・・。」
「まぁ、全く別の仕事だからイチからにはなると思うけど、なるべく早く一人前の僧侶になろうと思ってるから。」
「ううん、これまでの経験は活かせるからイチからじゃないよ。」
「え?」
「イチからじゃないよ。それに陽ちゃんのことだから何も心配してない。だって、今の陽ちゃんの目は今までの闘ってきた陽ちゃんと変わらない目だから。きっと上手くいくよ。会心の結果を出してね。」
「ありがとう。」
「おでん、冷めちゃったね。また温めるね。」
「うん、お願い。」

温め直した鍋からは優しいダシの香りが再び立ち上がってきた。

「あっ。」
「どうした?」
「この子も喜んでいるみたい。」

2人が再びおでんを始めた時、晴香のお腹の子が動いた。



翌日、スーツを着て靴を履く陽介の背中を晴香がポンと叩いた。

「いってらっしゃい。頑張ってね。」
「うん、ありがとう。」

ドアを開けた陽介の体に暖かな空気が触れる。昨日は寒かったのにこんな日に限って暖かくなるのは何か運命的なものがあるのかもしれない。
電車を2つ乗り継いで斡旋所に着いた。いざ実際に着いてみると少しだけ足取りが重くなるが、意を決して中に入った。

外からはわからなかったが中には解放された空間が広がっている。
中にいた男性に陽介が話しかけると男性は真剣な顔で応えた。


「ここは転職をつかさどるダーマの神殿。職業をかえたい者が来るところじゃ。転職をごきぼうか?」