どちらかと言えば、つぶあん派です。

はじめまして、よっさんと申します。1982年、広島県生まれ。「あひるの空」とゆずの「夏色」とチキン南蛮を愛する一児の父。瀬戸内を盛り上げるために日々奮闘するも、泳げないのがタマニキズです。

目線の話

R-1ぐらんぷりと掛けまして、上手な紙飛行機と解きます。
その心は、『どちらもトークに活きます(遠くに行きます)。』
こんばんは。


タイトルで「目線」とありますが、言葉としての目線には2つの意味がありますね。
まずは視点というか、気持ちというニュアンスの目線です。
「消費者の目線になって商品開発をする。」などで使われるあれです。立場という意味も場合によっては近いニュアンスになるかもしれませんね。

もうひとつは目の位置と言う意味での目線です。
視線とも言われるんじゃけど、こっちは本当に「見る」という行為に繋がりますわ。
よく言われるのが「女性は男性の目線が胸に行っているのをすぐに見分ける」と。
男の人がどんなにさりげなく女性の胸を見たとしても、女性からすれば一発で分かってしまうという悲しき事実をまとった「目線」ですわ。
これはわしも気をつけんといけんな。

・・・

何を(苦笑)?


さて今回のテーマは後者の方の目線なんじゃけど、それにはこんな出来事があったんです。
朝満員電車に乗りながら通勤して駅に降りた時に、小学生の子どもがランドセルを背負ってわしの前を歩きようたんよね。制服からして国立大学の附属小学校の児童じゃったんじゃけど、小学校に入る時からお受験もあって大変じゃなぁと思いました。
時々、電車や路面電車で見かけることがあるんじゃけど、久しく出会わんかったけぇ特に目に留まったんじゃろうと思うわ。

その時に思ったんじゃけど、子どもが満員電車に乗るのって凄い怖いんじゃなかろうかと。
というのも、大人は背が高いけぇ自分の目線には開けた空間があるし、窓からは景色を見ることもできるけぇ、今の満員電車の状態がどんな状態か、察知できるよね。
一方で子どもは?というと、自分の目線には大人の足であり体があって、周りが全然見えん。空いとったり椅子に座った状態ならいいけど、満員電車の立った状態でこの状態じゃとかなり不安になるんじゃなかろうかと。
どうすることもできんのじゃけど、もしわしの近くに小学生などの子どもが乗ってきたら少し広めに空間を取ってあげんといけんなぁと感じたんじゃわ。


ほんでその時にもう一個思ったのが自分の子どもと話をする時のこと。
まだ3歳の息子は当然ながら小さいけぇ、わしがそのままの目線で話をしようとするとかなり見下ろすような格好になるんよね。(←わし、こう見えても182cmあるので。)
実の息子ならあんまり威圧感を感じんのんかもしれんけど、それでも怖いのは怖いかもしれんし、何より息子の目線になっていないなぁと親としても自戒しました。
なので、息子と話をするときは膝を折って、同じ目線で話をせんといけんなぁと改めて思いましたわ。
(いちおう弁解すると大半は同じ目線で話をしようるんじゃないかと思っています。無意識のうちにね。)

子どもってそのあたりは結構敏感に感じ取るじゃろうし、お互い心を開いて話をする方がいいので。
大人になってからそれをやると小ばかにされたように感じるけど、少なくてももう少しの間はそうしようと思いますわ。


親が子どもに育てられた瞬間でした。


わっしょい(・∀・)ノ


そんなこんなで今日は
ロビンソン/スピッツ

スピッツって何年経ってもスピッツじゃけぇ凄いな。
「誰も触れない二人だけの国 君の手を離さぬように」
草野さんの高音が綺麗じゃわ。