どちらかと言えば、つぶあん派です。

はじめまして、よっさんと申します。1982年、広島県生まれ。「あひるの空」とゆずの「夏色」とチキン南蛮を愛する一児の父。瀬戸内を盛り上げるために日々奮闘するも、泳げないのがタマニキズです。

【桃太郎はなぜ、キジをお供に選んだのか。】

昔話の中でも桃太郎はテーマとして使いやすいので、結構お世話になっています。
なので、盆と正月には何かしらの贈り物をしないといけないと思っているのですが、あいにく桃太郎の住所がわからないので贈り物もできないまま、何年も年月だけ重ねてしまいました。
この作品を見た桃太郎関係者の方がいらっしゃったら、是非御連絡ください。

さて、改めて説明するまでもないですが、桃太郎は村人たちを苦しめている鬼たちを懲らしめるため、イヌ・サル・キジをお供に連れて、鬼ヶ島に鬼退治に出かけます。
なぜこの三匹がお供なのかというと、桃太郎で出てくる鬼とは「鬼門」を意味していると言われており、その鬼門とは方角で言うと丑寅(うしとら)の方角になります。鬼にウシの角がついており、トラ柄のパンツを履いているのはこのためだと言われています。
そして、その丑寅の方角の反対に位置しているのが、申酉戌(さるとりいぬ)なのです。
このため、桃太郎のお供はこの三匹だというのが有力ではないかと言われています。

さて、ここで気になるのがイヌとサルは申酉戌に習っているのに、なぜトリだけキジという品種縛りがあるのかということです。
なぜなら、イヌやサルという表現にしておけば、どういう品種を連れて行ったかは読者の想像に任せることができます。例えば、ドーベルマンとゴリラかもしれないですし、チワワとメガネザルかもしれません。はっきり表現しすぎないというのは物語の鉄則だと思うのですが、なぜトリだけキジ縛りになっているのか。
せっかくなので仮説を立ててみました。


結論から言うと、大きく分けて2パターンあると思っています。
本当にキジだったパターンと、いわゆるトリのキジでは無かったパターンです、当たり前ですが。

まず、本当にキジだったパターンです。


【仮説1:キジがありえないほど強い。】
一般的に、強いトリと言うと鷲や鷹を想像するんじゃないでしょうか。集団となるとカラスなんかも怖いですが、鬼ヶ島に集団のカラスを連れて行ったとなると明らかにおばあさんがくれたきびだんごの数が足りなくなるので、その線は端から無かったと考えられます。
そうなると、鷲や鷹よりもキジが強いのかということになります。
ここで盲点なのですが、僕も含めて世間一般的にキジがガチで闘う場面を見たことがある人はほぼいない、もしかしたら一人もいないのではないかと思うのです。愛するキジのためであるとか、殺されたオヤジならぬオヤキジの敵討ちのためとかでない以上、キジがガチで闘う場面に出くわすことは無いでしょう。
一方で、そういった真の強さをキジが兼ね備えていることを桃太郎は見抜いていたのかもしれません。だから、敢えてキジを選んだと。
人ならぬトリを見る目があったと考えると、桃太郎の人心掌握術は昨今のビジネスの中でも学ぶところが多いかもしれませんね。


【仮説2:鬼に疑問符を持たせる。】
読者の大半が「なぜキジ?」と思ったように、当事者の鬼も間違いなく思ったと思います。この関心、と言いますか疑問点が生まれることによって、鬼の動作がワンテンポでも遅れてしまいます。そして、そのワンテンポの遅れによって桃太郎は主導権を握ることができるのです。
例えば、僕はコンビニでお茶を買う時はジャスミンティーを良く買うのですが、傍から見ると「なぜジャスミンティー?」と思うのではないかと思っています。それによって「この人、なんかオシャレ」と、ただジャスミンティーを飲むだけで素敵に印象付けられたり、もしくは「ジャスミンティーって珍しいですね。」などの会話が生まれたりします。これを自分では「ツッコミどころを身にまとう」と表現します。
それはあからさまなボケを身にまとうのではなくて、どことなく意味があるのではないか?と思わせ、聞いてみたくなるような、そんなツッコミどころのことを言います。
桃太郎がキジを連れて行ったのも、鬼に疑問符を持たせて主導権を握るという理由があったのかもしれません。
ちなみに、ここで言うあからさまなボケを身にまとうのであれば、トリという前フリ(鬼門の反対方角)があるのにサザエさんのノリスケをお供に連れて行くようなもんですね。これだといかにも感が出てしまい、ワンテンポ遅れるといった効果はあまりありません。


一方で、トリのキジでは無かったパターンです。

【仮説3:トリのキジではなく、着物の生地のことだった。】
実はイヌとサルはお供として連れて行きましたが、キジはお供ではなく贈り物だったのではないかという説です。
端から勝ち目のない勝負だと悟っていた桃太郎は、鬼に贈り物を渡すことによって仲良くなることを考えました。言わば、力でねじ伏せるのではなく犬養毅ばりの「話せばわかる!」の精神で鬼と対話による解決を目指したのかもしれないということです。
その際に、手ぶらでは交渉に応じる相手ではないとわかっていたので、お土産としてある程度高級な生地を持って行ったのだと思います。
結果、桃太郎と鬼は意気投合し、鬼は桃太郎に宝物のお土産まで持たせる始末になった。こういった意味では桃太郎の作戦は成功になったのでしょう。
ちなみに漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所(通称:こち亀)」でこう書かれていました。

「力ずくでは物事は解決しません。上手な対話が重要なんです。」

桃太郎は力ずくで鬼を黙らせるのではなく対話で解決しようとした。そのための足がかかりとしての生地だったのではないかと考えられます。


【仮説4:トリのキジではなく、雑誌の記事のことだった。】
上手な対話が必要だとは思っていながら、筆の力で解決しようとしたのがこの仮説です。
ジャーナリストがブラック企業の悪事を暴くかのように、桃太郎も週刊誌や書籍の記事の力で鬼たちを懲らしめようとしました。その為に白羽の矢が立ったのが編集者をしているノリスケでした。
ノリスケが食いしん坊だということを桃太郎はしっていたのできびだんごをあげることでノリスケを鬼ヶ島に連れて行くことができたのかもしれません。
実際に後世にこの桃太郎のエピソードが伝えられていることを考えると、ノリスケが鬼ヶ島に行って、その様を書き残したという説はあながち間違いではないのかもしれませんね。
その際に、イヌ・サル・自分(ノリスケ)だとバランスが悪い。そんな風に悩んでいた矢先、先述の申酉戌の方角に気づいたノリスケは「これだ!」と思い、事実を脚色してエピソードを後世に残したのでしょう。


このように諸説ありますが、結局のところは仮説の域を超えていません。
でも、桃太郎のお話はこれでいいと思っています。



なぜなら、「桃太郎はなぜ、キジをお供に選んだのか。」についてはっきり表現しすぎておらず、読者の想像に任せているのですから。